6.〜三種の慈悲〜 大悲と中悲と小悲について

前回のお話ではいのちが続いていく環境が自然的か、人工的かということで終わったと思います。今までのお話で私達は縁起を中心にそのいのちは生き、生かされ、繋いでいるということでお話させていただきました。今回からは「慈悲」について考えていくことで前回までの疑問の答えのヒントがあるかもしれません。「慈悲」という言葉を今の私達の世界で使うと「 いつくしみ、あわれむ心。また、情け深いこと。」といった国語辞典に載っている意味合いで使われていると思います。時代劇で「今年は冷夏で年貢が収めれません。お代官様、どうかお慈悲を」などといったときに使われていますが、まさしくお代官に、情けを掛けてほしいために「慈悲」という言葉を使っているのでしょう。しかし、多くの辞書では仏教における「慈悲」の言葉も紹介していて、「情けをかける」こととは異なる意味合いになっています。仏教における「慈悲」の意味合いとして「仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)をあわれみ、苦を除き、楽を与えようとする心。」と紹介されています。「悲しみ」が苦しみを除こうとすること、「慈しみ」が楽を与えようとすることでこの二文字を合わせて「慈悲」となっています。お経の中にも「大慈悲」や「大悲」といった言葉がよく出てきます。「大悲」があれば「小悲」はあるのかと思われる方もいると思います。もちろん「小悲」もありますし、さらに「中悲」もあります。辞書に「慈悲」の意味合いで紹介されているのはこの中で「大悲」の意味合いになります。この「大悲」「中悲」「小悲」で三種の慈悲となります。まず「小悲」は衆生縁の慈悲と言われています。これは私達の人間関係から起こる慈悲で家族、友人といった人と人の間に起こります。世俗的には愛や人情と言われる感情に近いと思います。つぎに「中悲」は法縁の慈悲と言われています。法縁とは仏教の教えとの出会いであり、この世界は諸行無常であるということは分かっていても、やはり「長生きをしたい」「お金がほしい」と思ってしまう。そのような執着を感じて、そのことを悲しむ、慈しむ気持ちが中悲となります。そして「大悲」は無縁の慈悲とされています。これは阿弥陀様をはじめ、仏様が私たちに対しての慈悲です。この無縁とは何に対して縁がないかというと、すべてのことに対して縁がないのです。仏様の慈悲には制限はなく、私たちすべてを差別なく慈悲の心を持っていただけるため、「大悲」は無縁の慈悲になります。